言語の意味/内容/効果
我々が話すことには意味がある。「私は喉が渇いています」と言えば、その文を発話している人が、今現在、喉が渇いていると分かる。日本語を理解できる人であれば、誰でも「私は喉が渇いています」という文の意味が分かる。たとえその場にいなくても、また「私」が誰を指しているのかを知らなくても伝わる情報が、その文の「意味」である。日本語文の意味を知っている、理解できるということは、日本語を知っていることと同じと言ってよい。
さらに詳しく、その文が描写している状況を実際に見聞きして知っているのであれば、その人は文の「内容」も知っている。2002年8月31日午後1時、フェーン現象で気温が35度を超えている夏の暑い日、北陸先端科学技術大学院大学▲に隣接する官舎の一室(台所)で「私は喉が渇いています」と藤波努が妻に向かって訴えている場面に居合わせたとしたら、その人は私の「私は喉が渇いています」という発話の意味と内容の両者を知っている。日本語を知っている人であれば文の意味は分かるが、内容を知るには、さらにその文が記述している状況と発話されている状況を知らなければならないという点が重要である(*26-1)。
では、「冷蔵庫にビールがあるわよ」と妻が答えたとしよう。この文の意味と内容は明白である。いま我々がいる台所に置かれている冷蔵庫の中に、冷えたビールが少なくとも1本は存在しているということである。しかし、この文は私にとってさらに重要なことも意味している。つまり、妻はダイエット中の私にビールを飲むことを許可しているのだ、ということを。仮に7歳になる姪が遊びに来ていて、同じ状況で妻に「私は喉が渇いています」と訴えたとしよう。姪の訴えに対して、妻が「冷蔵庫にビールがあるわよ」と答えたら、姪はひどく傷つくに違いない。「この台所にはあなたに飲ませるような冷たい飲み物はない」と言っているのに等しいのだから。
「冷蔵庫にビールがあるわよ」という同じ発言が私には許可を、姪には拒否を意味するというところが言葉の奥深いところである。このような意味を最初に出てきた日本語文の意味と区別するために、「効果」と呼ぶことにしよう。言葉には意味だけでなく、効果があるということを指摘したのはオースティンである(*26-2)。彼の考えは「言語行為論」と名付けられ、自然言語意味論の研究に大きな影響を与えている。
言語的表現の意味を整理しておくと、以下の3つの側面がある。
(1)意味:日本語を理解するために必要な文法的知識
(2)内容:文が表現している状況と話者・聞き手に関する情報
(3)効果:発話から聞き手が導き出す結論
一般論が成り立つのは(1)の「意味」だけであり、(2)の「内容」について語るためには状況を知らなければならず、(3)の効果について語るためには、さらに話し手と聞き手の関係を考慮しなければならない。文脈依存の度合いが強くなっていくことに注意が必要である。
音楽/絵画/ダンスの「意味」
言語以外の媒体による情報伝達を研究する場合、先の分類はどのような示唆を与えるのだろうか。音楽を考えてみよう。音楽は古代ギリシャでは朗読の一形式ととらえられていたこともあり、言葉との関連が深いとされている。音節を揃えたり、韻を踏むなどの形式は詩を読み上げたときの音楽的な効果を狙っている。楽曲の構成には、時代と地域によってさまざまな流儀があり、例えば14世紀の北フランス地域のモテットと、18世紀の北ドイツで生きたバッハの音楽とでは明らかに様式が異なる▼1。固有の様式を文法と呼んでも構わないだろう。ひとつの楽曲はある「言語」で書かれている。音楽の「意味」の研究とは、そのような音楽的文法の探究である。
「内容」研究に相当するのは、実際の演奏形態に関する調査である。現代のように、聴衆がチケットを買って大きなコンサートホールに出かけて演奏を聴くというのはごく最近の現象でしかない。ルネッサンスやバロックの時代は王侯貴族のサロンでごく少数の聴衆を対象に演奏されることが多かった。例えば筆者はクラヴィコードという非常に小さな音しか出ない鍵盤楽器を愛好しているが、鉄線に針を落としたような音しか出ないので、現代のホールではコンサートは不可能である。演奏者が一人、自分自身の魂を慰めるために演奏したという背景を知らないと、クラヴィコード用に作られた曲の真の姿は理解できないだろう。
最後に「効果」について。ある演奏が聴き手にどのような変化を及ぼすのか、今のところ非常に難しい問題である。なぜなら、音楽に関しては、まだ「意味」も「内容」も掴み切れていないからである。筆者は、気鋭のバッハ研究者である富田庸氏(Queenユs
University, Belfast)と共同で平均律クラヴィーア曲集第2巻を研究しているが、バッハ音楽の文法とは何かと問われても途方に暮れる。
標識や地図、ダイヤグラムなどは、その意味を研究できる手がかりがある。何らかの文法が認められるからである。しかし、音楽や絵画、ダンスなど、非言語的表現の意味を扱うには、まずその文法を見いだす必要がある。色彩や体の動きを構成要素とする文法である。問題はそのような文法が存在するかどうかである。この点については憶測の域を出ないが、特定の和音や色の配置が普遍的に心地よいものとされていることから、言語と同じように何らかの普遍性はあると思われる。そのような問題が切実になるのはまだまだ先の話ではあるが。
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