「知識」であるための条件
2002年のサッカーワールドカップの前、私は日本代表チームが優勝すると〈信じて〉いたが、そのことを〈知って〉いたわけではない。半面、いま私の家の前でいつもの車の音が鳴ったので、私は妻がまもなく帰宅することを〈知って〉いる。それでは、私が単にあることを〈信じている〉場合と、そのことを〈知って〉いる場合の違いは何であろうか。ある内容Pがある主体Sの「知識▲」と言われるための条件は何か。プラトンの時代以来、これは哲学の主要な問題のひとつであり、この問題を扱う哲学の分野は〈知識論〉と呼ばれてきた。
「知っている」についての伝統的な考え方
右の問いへの答えとして、まず最初に思いつくのは、信じている内容が誤っている場合には、それは知識ではなく、それが正しい場合には知識であるという考えである。しかし、これは十分ではない。たとえば、ワールドカップの前、私は日本代表チームが決勝トーナメントに進出するとも信じていた。そして、日本代表チームは実際に決勝トーナメントに進出したわけであるから、私が信じていた内容は正しかったことになる。それでもなお、試合の前の時点で私がそのことを知っていたということはできない。つまり、「知っている」という事態と、単に「正しい内容を信じている」という事態との間には距離がある。
「知っている」と言えるための追加の条件はなにか。かつて主流であった答えはこうである。知っているというためには、正しい命題を信じており、さらにその命題を信じるに至ったプロセスが〈正当化できる〉ものでなければならない。たとえば、私は、ある時点で日本代表チームがいつか決勝トーナメントに出場すると信じていたが、そう信じるプロセスが、希望的観測や、単なる勘であり、プロセスとして正当化できるものではなかった。それゆえ、私はそのことを知っていたとは言えない。これに対し、私が特定の車の音を聞いたとき、妻がまもなく帰宅することを知っていた。特定の車の音と妻の帰宅との相関は、長い間の私の経験の中で例外なく確認されてきたものであり、私はその車の音を根拠に妻の帰宅を予想することが許されるからである。私が妻の帰宅を知っていたと言えるのは、帰宅を信じるまでに経たプロセスが、この意味で〈正当化できる〉ものであった。決勝トーナメントのケースと妻の帰宅のケースの決定的な違いは、それを信じるまでに私が経たプロセスが正当化可能なものであるかどうかであるというのが、この説のポイントである。「知識=正当化された信念」という図式がこの説から生まれた。
ゲティアの反論
ところが、議論はここで収束しなかった。1963年に、哲学者ゲティアが短い論文を書き(*20-1)、たとえ正当化できるプロセスを経て正しい内容を信じるに至ったのでもあっても、その内容を知っていると言えないケースがあることを示したのである。その詳細は省略するが、彼は次のことをクリアに示した。「正当化できるプロセス」という条件は、ある内容を信じるまでに主体が所定の手続きを踏んだということを保証するが、その手続きが常に正しい信念を生むことを保証するものではない。「正当化できる」というのは、手続きとして「やることはやった」ということであり、「あとは野となれ山となれ」というわけで、結果の正しさまでは要求しない。この条件は、この点で〈弱い〉条件であり、知識と呼びうるものを産出するプロセスの条件として役不足なのである。
「知っている」についての外在主義的な考え方
こうした認識に基づいて、ノージック▲、ゴールドマン▲、ドレツキ▲らは、次のような説を提案した(*20-2、*20-3、*20-4)。あることを知っているといえるためには、それを信じるに至ったプロセスが単に手続き的に正しいというだけではなく、結果の面でも正しいこと
| 常に正しい信念を生むこと
| が保証される必要がある。やや誤解を招く表現であるが、「結果の面での正しさの保証」は、英語で「信頼可能(reliable)」と表現できるので、知識に関するこの考え方は、〈信頼主義(reliabilism)〉と呼ばれる。また、これは、ある内容を信じるに至るプロセスを主体の経る手続きの内部だけではなく、その結果というプロセスの外部の要素も絡めて検討するので、「外在主義(externalism)」の一種でもある。19項「情報と知識」で示された知識の定義は、この外在主義に則(のっと)っている。
外在主義にしたがえば、主体Sが内容Pを知っているというとき、Pという正しい情報をSが獲得したというだけではなくて、常に正しい情報を獲得する何らかのプロセスにSが習熟していることを意味する。つまり、知識は常に知識を生み出す習慣的プロセスの存在を含意するのである。私が妻の帰宅を知っていると言えるのは、車の音から妻の帰宅を予想するという習慣的プロセスが存在しているからである。逆にそうした習慣的プロセスが不在なままに得られた情報は、それが正しくても、知識ではない。また、そうした習慣的プロセスが単に内的に正しい(正当化できる)ものであり、外的に正しい(信頼できる)ものでないときにも、それは知識を生み出さない。
このように、知識論の発展は、「知っている」ということが要求する高度な条件が、一つひとつ明らかになっていった過程である。なかでも、最近の外在主義は、知識の要求する格段に高度な条件の発見であった。そして、こうした高度な条件の発見は、とりもなおさず、「知っている」という事態のもつ高い価値の発見であり、たとえば、「情報」と比較して「知識」にどのような追加的価値があるのかという点の明確化であった。こうした認識の高まりのなかで、知識を目標概念とする研究プロジェクト
| 知識科学▲ | が現れたのは、いわば歴史上の必然であるのかもしれない。
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