知識(ナレッジ)という言葉は常に万人を魅了してきた。知識の研究は、人間の歴史と同じくらい古い歴史をもっている。この言葉には、自分の心の中のイメージを喚起させるものがあるようだ。自分自身に問いかけてみると、誰しも自分の中には、日々の「知」の営みやその記憶があふれている。経営者、管理者、技術者、技能者、政治家、教育者、研究者、芸術家から家庭の主婦や子供に至るまで、個人、組織、社会におけるあらゆる営みはすべて「知」にかかわらないものはない。
「知識科学=ナレッジサイエンス」は、知の再編・融合・創造を目標とする壮大なプランであり、すべての人が参加できる挑戦的で、魅力的な21世紀のフロンティアなのである。
時代は「知識社会」に向かって動いているというのが、我々の基本的な認識である。これまでの諸科学は「物質」「エネルギー」「情報」を主要なテーマとして発展し、物理学や生物学、哲学、経済学といった個別科学として社会に蓄積されてきた。ところが、それらの細分化された「知」のかたちは、必ずしも人類、生命、そして地球全体にとってメリットばかりではなかったことが明らかになりつつある。これからの社会には、「知」が人間・組織・社会に深く結びついた「知識」として、新しく再編・統合されることが必要とされている。21世紀を特徴づけるキーワードもまた「知識」であり、新しい「知識」のあり方が、新しい社会を切り開いていくと期待されている。我々はその来るべき社会を「知識創造社会」と呼びたい。
「知識科学とは何であるか、何を目指すべきであるか」に関しては、さまざまな観点や要請があり、時代の変化にも柔軟に対応していく必要もあるため、統一的な答えが用意されているわけではない。われわれは知識科学の定義として、「自然、個人、組織および社会の営みである〈知識創造〉という切り口によって、物質科学・生命科学・認知科学、情報科学、システム科学、社会学、経営学、経済学に至るまでの自然科学分野や社会科学分野の学問を再編、融合した教育研究体制を整備し、知識創造のメカニズムを探求すること」を掲げている。
知識科学が目指す目標としては、「将来の知識社会を担う問題発見・解決型人材、すなわち経営の分かるエンジニア、科学技術の分かるマネジャーのような、知識社会が必要としている人材を育てること」を掲げている。このためには複雑系、組織ダイナミクス、意思決定メカニズム、研究開発プロセスを中心にしてネットワーク、サイバースペース、バーチャルコーポレーションなどの幅広い分野が研究・教育の対象となる。さらには、研究者や技術者だけではなく、企業家・芸術家・職人等との交流も不可欠であると考えている。これらは別々の学問・領域のように見えても、実は「知識」という概念を核にした大きな統合的新分野の別々の側面である。
では、なぜ知識科学なのだろうか? まずは、これまでコンピュータサイエンスとして発展してきた情報科学が、情報処理の時代を経て、本来の目的であった「人間活動のあらゆる面に付随した情報」という概念にいよいよ正面から踏み込もうとしていることが挙げられるだろう。そして、経営資源や競争力の源泉としての「知識」のマネジメントに対する関心が世界的に高まっており、この面では産業組織論、技術経営論、経営戦略論・組織論などにおいて理論化、実践化が進んでいることも大きい。
さらには、環境科学におけるように、人類の将来にかかわる複雑で大規模な問題解決のためには、従来のいわゆる「理系」、「文系」の学問を融合した新しい価値体系と方法論が必要であることを実感している人は多いのではないだろうか。自然学としての科学、人間の学である認知・情報学、そして社会や組織のあり方について考える社会科学、この3つの学問分野を融合して、大きな「知識」の新しい枠組みの中でダイナミックに捉え直すことが、ぜひとも必要なのである。
このような目的のもと、日本初の独立大学院大学である北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)において、1998年、世界に先駆けて知識科学研究科が活動を開始した。
〈知識科学〉の誕生にはそれにふさわしい〈知縁〉ともいうべき経緯があった。まず、二人の碩学―初代学長の慶伊富長先生と初代研究科長の野中郁次郎先生―の熱き思いの出会いである。マイケル・ポラニー博士の孫弟子を自認される慶伊先生は物理化学・高等教育論などを、〈ミスター・ナレッジ〉として世界的に有名な野中先生は経営学・組織論などを専門とされている。二人を結びつけたのは、ポラニー博士の〈暗黙知〉という言葉である。分野の異なる研究者が意気投合し、また深い知を媒介とした人脈の系譜が働いたところに、知識科学の本質がすでに現れている。さらに、この二人の思いに賛同し参集してきたのが、今回本書を執筆している我々である。経営学、経済学、情報学、認知科学、システム科学、複雑系科学などの分野から、未開の荒野に道を拓く意気込みで教育・研究に取り組んできた。
このような異分野融合の教育・研究のためには、場の整備やプロセスの展開が重要である。
場の整備としては、JAISTでは「知識創造ビルディングス」というコンセプトのもとに、物理的、認知的、社会的、情報的な知の創造空間の実現を図り、研究科全体を最先端情報技術で装備することにより知識創造支援システムを構築し、教育・研究の充実化、活性化を目指してきた。
また、融合プロセスの進行は、異分野の研究者が同じミッションのもとに物理的に近くに集まり、日常的に接触を始める段階からスタートする。次にそれぞれの分野の研究者が、他分野の知見や方法論を自分のもとの分野に取り入れ、それぞれの分野の研究成果として発表し出す。そして、研究成果が蓄積されてくると、今まで明確には把握できなかった新分野が自ずから意識され始め、コンセプトもはっきりしてくる。こうなれば雪だるま式に新しい研究成果が急速に生み出されていく。現在は第2の段階に差し掛かったところであり、本書にも触れられているような知識科学らしい独自の研究成果が出てきている。
|
|
知識科学研究科は、文系、理系、芸術系などのさまざまな分野の学部卒業生、社会人経験者、企業派遣者が入学する。年齢も20代から50代までと幅広い。文系学生にとっては、自然、情報などの分野の基礎教育を受けることによる利点は計り知れない。理系の学生にとっては、人文・社会科学の問題発見と問題解決に関する研究テーマに取り組めば、新しい方法論が生まれ、文理融合の新しい展開が期待されるだろう。また、多様な学生同士の相互交流もよい刺激になっている。個々の授業では、文系の知と理系の知の連結を目指した試みが行われている。これまでに数百人の卒業生を社会に送り出し、すでに博士号を取得する者も現れている。
本書は、JAIST知識科学研究科開講から5年に及ぶ「知識科学」教育研究活動の成果の一環として企画された。各項目は知識科学研究科の教育・研究者が分担執筆している。ゲノム情報から複雑系、組織の知識創造メカニズムからヒューマンインタフェースに至る「知識科学」の広汎な適用範囲は、これからの学問体系および人間社会に新しい視角を提示してくれるだろう。なぜなら知識科学は、累進的な知識の集合を超える、新しいパラダイムから創造されているからである。
本書が「知識」の活用を目指した社会像をあぶり出し、「知識科学」の適応が最も期待される学界・産業界へのアピールとして、また、知的好奇心に富む学部学生・社会人を含む広い読者層に「知識科学」の認知を高めるものであることを期待したい。もとより知識科学の樹立・発展は我々だけでできるものではない。本書が、企業、公官庁、大学、NGOなど、知識の新しい活用を求める同志が集う契機になり、学生諸君の新分野への挑戦の意欲を掻き立てる機会になればと考えているが、今後、知識科学を創生するための海外を含めた協力体制の確立がぜひ必要である。
|
|
本書は「知識科学」の領域と成果を64項目のキーワードを通じて解説している。ハンドブック的に読めるように、各項目は図版を使いながら数ぺージにまとめた。豊富な脚注、ぜひとも一読を勧めたい関連書を紹介する「Feature
Reference Books」、関係する用語をリンクする「ホットワード」などにより、項目解説は多くの入り口をもっている。分野ごとにまとめた章の最初には全体を通観する解説を置いて、章のナビゲーションとした。また、各章の末尾にはBook
Gudieなども挿入し、横断的で立体的な構成となっている。
最後に、編集工学研究所の澁谷恭子代表取締役社長、仁科哲氏、および協力スタッフの古賀弘幸氏に厚く感謝申し上げたい。本書の企画から出版まで、これらの方々との密接なコラボレーションなくしては不可能であった。編集工学研究所でなされている仕事もまさに知識科学であると強く印象に残った。
(北陸先端科学技術大学院大学 知識科学研究科教授)
2002年10月
|
|