中国で蝶がはばたくと……
カオスとは決定論的でありながらランダムさや不確定性をはらみつつ、豊富な時空間構造を生み出す運動である。カオスの特徴である初期値鋭敏性とストレンジ・アトラクタがもたらされるしくみを簡単に見てみよう。
カオスの特徴としてまず挙げられるのは、初期値鋭敏性である。これは「バタフライ効果」とも呼ばれる。いわく、中国で蝶がはばたくと、翌日のニューヨークの天気が変わる、というわけである。これは、ちょっとした状態の違いが時間とともに拡大されて伝わっていき、システムレベルへと発展するという性質を言い表したものである。つまり、ミクロレベルの変動がマクロレベルの違いをもたらし、ある部分に生じた小さな変動が系全体へと伝播・拡大する。
この初期値鋭敏性を発見したストーリーとして、気象学者ローレンツの話が有名である(Lorenz, 1993)(*32-1)。1950年代、ローレンツは大気の状態を単純化して表した方程式をコンピュータで計算していた。ある程度計算を進行させ、プリントアウトされた途中の計算結果を初期値として、その時点から再び計算を始めた。しばらくしてその計算過程を見たローレンツは、先程の計算と全く異なる結果になっていることを見て驚いた。当然彼もプログラムのバグや機械の故障を疑ったが、いろいろと調べた結果そのようなものはなかった。彼が見た結果の大きな違いこそ、初期値鋭敏性だったのである。
つまりこういうことだ。紙に出力された計算結果はある桁までであり、コンピュータの中で計算に使われていた桁数よりも少ないものであった。つまり、少数点以下数桁以下のほんの小さな違いが初めの計算と2回目の計算との間にあり、その差が計算が進むにつれて拡大され、ついには全く異なる状態になったのである。ローレンツはその後、この大気変動モデルをより簡単化した三変数の方程式系(現在「ローレンツ方程式」と呼ばれる)を詳細に調べ、「決定論的非周期な流れ」として発表し(1963)(*32-2)、その後のカオス研究の大きな流れを作った。
初期値鋭敏性は予測不可能性へとつながる。カオスにおいて予測不可能であることが驚きなのは、その方程式が「決定論的」であるからである。微分方程式や差分方程式といった、現在の状態から直後の時間の状態が一意的に決定できるシステムであるにもかかわらず、ちょっとした状態の違いが、ある程度の時間の後は大きな違いに成長し、システムの状態が予測できないのである。カオスの発見は、「未来が完全に決まっているにもかかわらず、ランダムさが生み出され、未来が完全に分かるわけではないこと」があり得ることを示した。
例えば、x(t +1)=4x(t)(1-x(t))というロジスティック写像▼1と呼ばれる差分方程式を考えてみよう。初期値(例えば、x(0)=0.1)をこの方程式に代入すると、次の時刻xの値を
x(2)=4×0.1×0.9=0.36 とすぐに計算することができる。では、ちょっと違った値、例えば、x'(0)=0.1001を初期値とした場合、100ステップ後、すなわち、
x(100)とx'(100)がどのくらい違っているか分かるだろうか。これは実際に、x(0)から順にx(100)まで計算しなくては分からないが、たった0.0001の小さな違いが全く違う計算過程を生む(これは電卓で簡単にできるので、ぜひ読者に計算してもらいたい)。
ストレンジ・アトラクタの振る舞い
ある種の方程式▼2は時間が経つにつれ、軌道(状態の連なり)がある決まった幾何学的構造(「アトラクタ」と呼ばれる)に行き着く。カオスが発見される以前は、アトラクタの種類として固定点、周期、準周期の3種類が知られていた(★32-1)。カオスを示す方程式のアトラクタはこれらとは全く異なり、非周期的であるが発散せずにある領域にとどまり、無数の線が重ね描きされているようで実際にはどの線も交わらず、そして部分を拡大すると拡大前と同じような図が現われるフラクタル性▼3をもった、非常に複雑な構造をもつ(★32-2)。この奇妙な性質から、「ストレンジ・アトラクタ」と呼ばれる。
このような、初期値鋭敏性をもつが無限大に発散せず、非周期的で無限に入り組んだストレンジ・アトラクタをつくるというカオスの特徴は、「引き延ばし」と「折り畳み」という機構から生み出される。これを図のレスラー・アトラクタ▼4を用いて説明しよう。この図は図中の微分方程式をコンピュータで計算し、x、y、zのそれぞれの値を順にxyzの三次元空間に描いていったものである。xy平面の中で内側から外側へと円を描くように動いている軌道は、あるところで同心円の外側がz方向に持ち上げられる。すなわち「引き延ばし」が行われ、近くの2点が離される。その後、点が無限に離れていくのではなく、軌道はまたxy平面に戻る。この時、同心円の外側が内側に折り返されつつ戻される。つまり「折り畳み」が行われ、1枚のシートが2枚になる。この操作が無限に繰り返され、無限にシートが重なった構造が作られ、ちょっとした初期位置の違いで、このシートのどこに位置するかはまったく変わってしまう。この過程は、パイをこねる動作を思い浮かべると分かりやすい。パイ生地を広げて折り畳んで、という動作を繰り返すと、パイは無数のシートが重なったものになる。そして、初めにパイ生地中で近くにあった部分が、こねた後に互いにどこに行ってしまったか、分からなくなるだろう。
カオス研究がもたらすもの
電気回路や気象のモデルで見いだされたカオスは、さまざまな物理系、非平衡化学反応系、脳などの生体系、生態系の個体数変動、経済変動など、多くの分野で研究され、また実際に観測されている。すなわち、カオスとは、ある種の数学的研究の中で見いだされるまれな現象ではなく、自然界に遍在することが知られるようになってきた。そして、カオスを用いた予測や制御、暗号の生成、情報処理や新しい計算原理の探求など、カオスを応用に用いる試みも数多く行われている。例えば、カオス暗号では、暗号化される元の値(平文)に、単純なカオス方程式を何度も適用するだけで暗号化した値(暗号文)が生成できるが、元の値が近いものでも暗号化されたものは全く異なるものになるし、その異なり方も予測できない。また、暗号文を平文に戻すためには方程式の解を求めないといけないが、それは、方程式で次の値を計算することに比べると格段に難しいため、暗号の安全性が高まる。
変数の数が少ないシステム、すなわち、低次元のカオスに関しては多くのことが分かってきたが、高次元カオスの研究は発展途上である。高次元カオス系のひとつとして結合写像系というものがある。これは、低次元のカオス的写像を多数相互作用させて高次元系を構成したものである。このシステムにおいては、要素としての写像が自発的にいくつかのグループに分かれ、そのグループの組み換えが自発的に起きたり、空間的なカオス構造を作ったりという、非常に興味深い多くの性質が観察されている。高次元カオス系で見られる、ダイナミクスが最終的にある状態に行き着くのではなく、さまざまな擬アトラクタ状の構造の間を移り変わっていく「カオス的遍歴▲」(金子・津田、1996)(*32-3)や、多自由度であるが弱いカオス性をもって相互作用しながらシステム全体の動的安定性を実現する「ホメオカオス▲」という概念(Ikegami & Kaneko,
1992)(*32-4)は、脳や生物あるいは社会のダイナミックな構造を解き明かすひとつの鍵となるものである。
カオスが発見されるまでの世界は、一見複雑に見えても、さまざまな周期状態が重ね合わされたものとして、最終的には理解できると考えられていた。非周期的で複雑であるが単なるランダム(混沌)ではないカオスの発見は、そのような「調和的」な世界観をはみ出すものであり、また、この決定論的であるが予測不可能なシステムは、予測可能性を追究してきた古典科学の終焉を告げているとも言える。このような発展により、安定性に基づいた静的な世界認識を超え、複雑な構造が自然に生成する動的なものの見方が作られつつある。
人間活動がかかわるような現象に関して、数学的にカオスと考えられるような単純なモデルを作ることは難しいため、カオス研究が知識研究に直接役立つにはまだ時間がかかると思われる。しかし、上記のホメオカオスという概念や、脳や社会の動的な構造の理解は、人間の知的活動を知る鍵となる可能性がある。また、静的なストックとしてのみ知識を理解するのではなく、知識を生み出すダイナミックな活動として知識創造を考えるためには、カオスの開いた動的な世界観が必須となるのではないだろうか。
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