「できるのに説明できない」を「科学的」に扱う
「暗黙知」とは、「言葉で説明できない知識」である。暗黙知と対比されるのは、「形式知▲」であり、これは言葉で説明できる知識である。例えば東京駅から北陸先端科学技術大学院大学まで公共交通機関を乗り継いでいく方法とか、大学院大学とは大学院生だけを受け入れる大学である、といった定義は形式知である。
一方、暗黙知は「できるのに説明できない」、「分かっているのにうまく言えない」知識である。たとえば名医を考えてみよう。優れた内科医は聴診器を胸に当てて患者の体の中の音を聴くだけで、かなりの程度で病状を判断できる。どのような音の違いを聴き分けているのか、言葉で説明することは難しい。また、音を聴くだけでなく、指で患者の胸を叩いてみたりもする。なぜそのような叩き方をするのか、これも簡単には説明できない。マイケル・ポラニー▲は、言葉では説明できないが、理解して使っている知識があることに気付き、「暗黙知」と名付けた(*21-1)。
暗黙知は、我々が経験を通して獲得した知識である。そのため、暗黙知は「経験知」とも言い換えられる。では経験知とは何か、なぜそれは言葉では説明できないのだろうか?
経験知の「知」は、形式知の「知」とは異なっている。経験知は、我々の体験と密接に結びついている。例えば、ボイラーのあちらこちらをハンマーで叩き、その時の音の違いで故障を診断できる人がいる。ハンマーで叩いてから診断結果が出るまでに論理学の三段論法のような規則と事実を積み重ねていく推論を経ることなく、瞬時に答えは出る。
経験知とは、体験の良質な部分がいわば結晶化したものであり、形式知を経由しないで、それ自身で答えを出すことができる、独立した「知」の様式である[★21-1]。
「経験知」は「科学的」に扱えるのだろうか? 経験を科学の基礎に据えるアプローチは、西洋では「現象学」としてフッサールによって始められ▼1、最近では、ヴァレラらの認知科学者によって新たな取り組みがなされている。新しい着眼点は、経験知を既に体得しているコーチが果たす役割である。従来の現象学では、個人の体験にのみ注目していたが、初心者が経験知を獲得するには、習得過程に付き添って指導し続けるコーチの存在が不可欠である。経験知はいかにして人から人へと伝えられていくのか。この問題が今、最も重要である。
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